1.一楽壇(いちらくだん)の板碑

注 1)
ほとんど読みとることは出来ないが、墨痕の残る貴重な文化財(窪野目の徳昌寺)

 

  窪野目と大清水の境に一楽壇という 塚 があった。その中から板碑(注 1 )が 3 基出土し、1基に「 応永( おうえい ) 九年四月拾七日 孝子敬白 若心求仏恵 通達菩提心 父母所生身 即証大覚位」と 墨書 ( すみがき ) されていた。
  ほとんど読み取ることはできないが、 墨痕 ( ぼっこん ) の残る例は少なく貴重な文化財である。
  板碑はもともと供養塔として塚の上に立っていた。
  一楽壇は、 中世 ( 室町 時代)の 土壇 ( どだん ) か 墳墓 ( ふんぼ ) であったらしい。

(川崎利夫氏「天童の歴史散歩」より)

 

(注 1 )1.板碑:
  鎌倉時代におこり、室町時代に増加していった中世だけに造立された石碑。板状の石を用い、卒塔婆の一種として発生した供養塔。墓石の意味を持つようになっていく。板碑の身部には仏像をあらわす梵字(種字)があり、造立年月の紀年銘があるのが普通だが、古く磨滅してわかりにくいのが多い。 板碑に多い信仰は、阿弥陀如来を供養して浄土往生を祈願したもの、ほかに阿弥陀三尊、または一尊を梵字で表現したもの、大日如来・釈迦如来・薬師如来への信仰、日蓮宗の題目を表したものなどがある。一般に、鎌倉時代のものは大柄で、時代が下がるにつれて小型化するといわれる。
(大木彬氏「蔵増地区における明治以前の石造文化財」より)