3.蔵増城(くらぞうじょう) 文明(ぶんめい)年間(1469年〜1486年)に築城

  この城は 倉津安房守 ( くらつあわのかみ ) によって 築 かれた 平城(注3-1) で、この頃山形では 最上氏が 勢力 をもち、 対抗する人としては 寒河江の 大江氏、 谷地の 白鳥氏などが勢力をはっていた。最上氏は大江氏や白鳥氏らの勢力を 抑えるため、この地に 築城させたものと思われる。

  当時を 偲ばせるものとしては、 堀跡( 堀端 ( ほりばた ) 、西小路、南、東の堀跡)や、安房守の娘、 萩姫の化粧の井戸、 殿原 ( どのばら ) 、城を囲む 寺並み、安房守が大般若経百巻を寄進したとされる八幡神社など、安房守時代の 名残りをとどめているものが多い。

★蔵増城の規模  ( 長井政太郎氏「山形県新誌改訂版」より ) ----------
東西 100 m 南北 120 m (外郭 東西 450 m 南北 580 m)
城内 51,000 坪  石高 ( こくだか ) 3,000 石 (小国城の石高 8,000 石)
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注3−1)平城:
平地に築いた城。山城に対する用語。
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☆☆  倉津安房守 ( くらつあわのかみ )

倉津氏に関する記録はほとんど残っていないが、山形城を築いた初代 斯波
( しば ) 兼頼 ( かねより ) から 最上義光 ( よしあき ) に至る最上家と 血縁関係にあったことは確かである。 天授 ( てんじゅ ) 元年( 1,375 年)天童城を築いた天童頼直 ( よりなお ) (最上家初代 斯波 ( しば ) 兼頼 ( かねより ) の 孫 、長男)の弟で、 高擶城主の 義直 ( よしなお ) (同じく斯波兼頼の孫、四男)が天授年間〜応永年間に蔵増に移って築城したという説や、 義直 ( よしなお ) の 後世が文明年間 (1,469 年〜 1,486 年 ) 蔵増に築城したという説があるが、時系列的な考察をすると義直の後世説が有力と思われる。 斯波兼頼の孫(最上家三代目)には、 満直 ( みつなお ) (山形城主 修理大夫)

 

 

**代々、倉津安房守の菩提寺だった法林山見性寺。 開創以来の本尊
  「釈迦如来」や、安房守 出陣の折は帯同し、常に勝利に導いたと伝えられる
  「薬師如来」が祀られている。


・ 頼直 ( よりなお ) (天童城主 右京大夫)・ 氏 直 ( うじなお ) (黒川殿)・ 義直 ( よしなお ) (高擶殿)・ 兼直 ( かねなお ) (蟹沢殿)・ 兼義 ( かねよし ) (泉出殿)らの兄弟がいる。高擶義直と、倉津安房守を結びつける有力な史料が無い ことから、これらの流れをくむ武将の事跡をたどり、史実を探る研究も必要である。

倉津家 (代々襲名 し倉津安房守を 名乗った)は 仏教信仰が 厚く、多くの寺を 領内に建てており蔵増本村だけで六寺がある。 法林 ( ほうりん ) 山 見性寺 ( けんしょうじ ) は、倉津家の菩提寺だった。いまも蔵増の見性寺には、寺を開基した倉津安房守のものと思われる 位牌が 供えられているが、 戒名「 當寺 ( とうじ ) 開基 ( かいき ) 見性寺殿 ( けんしょうじでん ) 雪渓幽公大居士」のみが書かれており、 俗名は不明である。墓石は見当たらない。
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☆☆  倉津安房守 ( くらつあわのかみ ) の移封  ☆☆

天正 ( てんしょう ) 8 年( 1,580 年) 7 月、倉津安房守は、 最上義光 ( もがみよしあき ) の小国城(現在の 最上町 、 細川氏が城主) 攻略の折、最上勢として最も際立った活躍をし、細川氏を滅ぼすと、その 恩賞 として小国の領地を授かり、 小国日向守 ( おぐにひゅうがのかみ ) と名乗り移っていった。

その 功績により 石高 ( こくだか ) (注3−2 ) は、蔵増時代の 3,000 石に対し、小国では、現在の尾花沢の一部を含めて 8,000 石の領地を 統治した。小国日向守は、最上地方では、清水大蔵太輔、鮭延越前守の両雄と並び 称される武将であったといわれる。

(最上町史及び広報もがみ H2.10 、 11 月号、 H11.5 月号より)

(注3−2 )石高:
:その土地の農業生産力を米の量に換算して表わしたもの。また、田畑の租税負担能力を高で示したもので、租税割当の基準となるもの。
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☆☆  小国日向守 ( おぐにひゅうがのかみ )  ☆☆

 最上町史 上巻 及び広報もがみ (注3-3 ) によると、確かな 史料が残っておらず、 実像は明らかではないとしてい るが、「 奥羽 ( おうう ) 永慶 ( えいけい ) 軍記 ( ぐんき ) 」によれば、「倉津安房守は、自ら小国に入部しないで、 嫡子(後継ぎ) をその地につかわした。」と記している。このことについては、村山地方の諸文献によれば倉津安房守自身が小国日向守を名乗り入部したと伝えられており相違している点である。

さらに、最上町史では倉津安房守の嫡子、小国日向守は二十歳前後の若武者であり、 天正 ( てんしょう ) 8 年( 1,580 年)から 元和 ( げんな ) 8 年( 1,622 年)までの 42 年間小国の 領地を支配、それも 一代 ( いちだい ) 限りだったと 想定し、その功績としては、 本城に 街割りを施し

**倉津安房守が小国(現最上町)に移り、城山に小国城を築く。

、十日町に 三斎市 ( さんざいいち ) (注3-4 ) を開くなど、最上町のほとんどの集落の基礎は、日向守の時代に築いたものであると記している。

 眼下に見える最上町の基礎は日向守が築いたと言う。また、寺や神社を手厚く保護する政策をとったということが伝わっており、「 小国 ( おぐに ) ( ごう ) 覚書」、 『最上町史編集資料第 1 号』所収には、次のような記述がある。

「依之小国郷江、最上倉曾ト申所ヨリ日向守様御引越被遊候ニ付、其所御氏神正八幡宮御引越、御城続之山之上ニ御宮ヲ建立シ、御社領三十石、境内竪九十間横八十間、別当白鴿山長源寺、御菩提所芳林山見性寺御供シ、則山下ニ御寺御建立、山中ニ御墓所拵、知行三十石、御魂米白米ニ而拾二俵ツゝ被成下由、其後天徳寺モ引越候由、今ニ最上倉曾ト申所ニ両寺有之ヨシ 」

 これによると、日向守の小国入部に伴って、いち早く、「城続きの山の上に氏神として正八幡宮を、また城山の下に 菩提寺 ( ぼだいじ ) として 芳林山 ( ほうりんざん ) 見性寺 ( けんしょうじ ) を蔵増から小国に移し、そして山中に 墓所をこしらえた。」ということが記されている。

 芳林山見性寺は、最上町 本城にあり、約 300 戸の檀家 ( だんか ) を持っている。しかし、これまで二度の火災にあい、当時の場所から移動しているということで、現住職に城主の墓の存在を伺ったところ不明であるとのことだった。

この芳林山見性寺には、「 當寺 ( とうじ ) 開基 ( かいき ) 大慈院 ( だいじいん ) 殿 ( でん ) 前羽林 義仁 ( ぎにん ) ( こう ) 大居士 ( だいこじ ) 尊霊 ( そんれい ) 」という寺を 開基 ( かいき ) した城主と思われる位牌が残っている。前述の蔵増の見性寺の 位牌には、「 當寺 ( とうじ ) 開基 ( かいき ) 見性寺殿 ( けんしょうじでん ) 雪渓幽公 大居士 ( だいこじ ) 」と書かれており明らかに戒名が違うことから、最上町の見性寺の位牌は、小国日向守の父、倉津安房守の位牌ではないのか、更 に研究を要するところである。なお、この見性寺近くの山の上には八幡神社も現存している。

 

最上町本城にある芳林山見性寺。倉津家と共に、小国(現在の最上町)に移った。

 

 

 

     蔵増見性寺に安置されている安房守と思われる位牌             最上町見性寺を開基した城主と思われる位牌

注3-3 )最上町史上巻、広報もがみ (平成 2 年 10 月 20 日号、 11 月 20 日号、平成 11 年 5 月号)

:いずれも現最上町社会教育課 伊藤和美氏執筆

注3-4)三斎市:十日町では、月三回、 10 日、 20 日、 30 日に市が開かれた。日向守が定期市を開設して、商業奨励策をとっていたと思われる。

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☆☆ 小国城の 接収 ( せっしゅう )  ☆☆

 小国町史には、小国日向守の領地は、元和 8 年 9 月 5 日、最上家 改易 ( かいえき ) (注3-5 ) に伴い、徳川幕府に 接収 ( せっしゅう ) され、日向守は子の 大膳 ( だいぜん ) や孫 源三郎 ( げんざぶろう ) らと共に現九州 佐賀 ( さが ) 県の鍋島 ( なべしま ) 家に預かりの身となり、 その地で 寛永( かんえい ) 8 年( 1,631 年)に生涯を終えた。大膳は、その 7 年前の 寛永 ( かんえい ) 元年( 1,624 年)に先立っていたとも記されている。

注3-5 )改易:江戸時代、士人に対する刑の一つ。士人の称を除き、領地、家禄、屋敷などを没収し平民とすること。蟄居(謹慎)より重く、切腹より軽い。
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☆☆  蔵 ( くら ) ( ぞう ) 大膳 ( だいぜん ) ( のすけ )  ☆☆

 倉津安房守が小国に入部 (注3−6) した後の蔵増城は、 蔵増大膳亮が 統治し、最上家 改易 ( かいえき ) の 元和 ( げんな ) 8 年( 1,622 年)に 廃城となった。

最上義光が 豊臣 ( とよとみ ) 秀吉 ( ひでよし ) の 朝鮮出兵( 文禄 ( ぶんろく ) の 役 ( えき ) 、文禄元年、 1,592 年)に伴い、 肥 ( ひ ) 前 ( ぜん ) 名護屋 ( なごや ) (現在の 佐賀 ( さが ) 県 東松浦 ( ひがしまつら ) 郡 鎮 ( ちん ) 西 ( ぜい ) 町大字名護屋)に 出陣した際、蔵増大膳亮に宛てた書状 ( 山寺 ( やまでら ) 立石寺 ( りっしゃくじ ) 保存) がある。

 

− 最上義光が蔵増大膳亮に宛てた書状 −

三月十七日ニ洛中打立、同廿八日ニ境海渡にて唐御陣ヘ打立候、筑柴なこやと申所まてなるよし申候。可御心易候、何様秋中者下向可及面論候、亦々其許普請以下火之用心等、任入申候、又者細々出任候て、惣領殿へ可被懸詞事、所希候事候、重而、恐々謹言

此由船越・同左馬亮両人へ、伝言憑依入申候尚々、用所候て喜吽相下候間、委可及伝達候  以上

三月廿八日 義光 (花押)

蔵増大膳亮 殿

これは山形 城下の整備や、安全を守るようにとの 書状であり、蔵増大膳亮は、最上義光の 重臣 ( じゅうしん ) であったとうかがい知ることができる。