【矢野目彦五郎に関する参考図書】 −市史編集資料第 29 号 P.116 より−

  明治 21 年 9 月 20 日付けで矢野目村代表「奥山金右衛門」ほか 4 名が蔵増村外三か村の 戸長 ( こちょう ) ( 注 1) 白田省吾宛に提出した「 出羽国 (でわのくに ) 東村山郡矢野目村 沿革 ( えんかく ) 」の中に、次のような記載がある。

(1) 矢野目村は 成生荘 ( なりゅうのしょう ) ( 注 2) に属し、 発祥 の 年暦は不明。矢野目彦五郎という郷士が矢野目村に    邸 ( てい ) ( かく ) を構え、その人は根っから温かく思いやりのある人で、その人柄を慕って家来になる者が多かっ   た。長い間にわたり絶え間なく人が訪れ、家も人も増加していった。

(2) 矢野目氏の 埋骨 ( まいこつ ) 地もその邸郭にあり、矢野目村の西北、倉津川の辺り旧字解道院という場所に五輪塔が建っている。これが矢野目彦五郎氏の墓であることはあきらかである。解道院という所は、矢野目氏の祈願所、修験所である。

(3 天童城主里見伊予ノ守の家臣、斎藤 杢之進 ( もくのしん ) は、矢野目彦五郎の旧邸に居たと言われているが、村の 名主にあった古文書などが 戊辰 ( ぼしん ) 戦争で戦火にあい、全て焼かれてしまったので明らかにするものは残っていない。矢野目村に斎藤と称する家があるのは、杢之進の子孫といわれている。

(注1) 戸長 ( こちょう ) :蔵増村、矢野目村、窪野目村、高野辺村の 戸籍 ( こせき ) 事務を取り扱った役場の長。翌年明治 22 年、町村制実施により蔵増村が成立し、初代村長に白田省吾氏が就任した。

(注 2 ) 成生荘 ( なりゅうのしょう ) :平安時代後期から室町時代にかけて栄えた 荘園 ( しょうえん ) 。