2. 杢之進 ( もくのしん ) 地蔵(室町時代  1462 年  寛正 ( かんしょう ) 3 年頃)

  矢野目の 名主 ( なぬし ) 斎藤杢之進は、 日照 りで不作にあえいでいた村人の 年貢 ( ねんぐ ) を少しでも軽くしてあげたいと思い、田んぼの 検見 ( けみ ) にきた天童藩の役人を 欺 ( あざむ ) き、 生育 ( せいいく ) の悪い田んぼに二度案内したことが分かってしまい、子の 松之進 ( まつのしん ) とともに 死罪 ( しざい ) になった。村人達はその死を 悼 ( いた ) み 地蔵 ( じぞう ) ( そん ) を二体 安置し 霊を 慰 めたと伝えられている。今は、 矢口 ( やぐち ) 墓地と奥山良一氏の 屋敷にある。

 

 

 

村民を救った 義民 ( ぎみん ) ( 注 1)杢之進

 寛正 ( かんしょう ) 3 年( 1462 年)、天童城主が、四代天童頼氏であったころのお話です。

 当時、天童の領地だった矢野目に、斎藤杢之進という、 義侠心 ( ぎきょうしん ) に富んだ 名主 がおりました。 その年は、実りなかばに襲った日照りのために、作物の減収は、さけられない状態に 陥 ( おちい ) っておりました。 年貢 ( ねんぐ ) の軽減を叫ぶ村人たちの声に、杢之進は、お城に、城主への実状の訴えを願い出ましたが、聞き入れられず、村には、例年のとおり、検査の役人がくることになりました。

 検査の日になり、村人たちの訴えが、何とか城主まで届くようにと考えた杢之進は、やってきた役人を、いちばん育ちの遅れている、 河原田 ( かはた ) という所に、案内しました。

役人は、あまりのひどさに驚き、「これはひどい。この辺一帯は、いずれも同じか」と、深く考え込み、実らぬ稲の葉をちぎり、ささ舟を作って、わずかに水が残る小川に、浮かべておりました。

 「城に帰る前に、もう少し違う所を見せてほしい」という役人のことばに、杢之進は、その付近をくるくる回ると、また同じ場所に案内し、「ここも先ほどの所と、同じ状態です」と申し上げました。

 これを見た役人は、大変同情して、「城に帰ったら、さっそくこのことを殿に伝え、年貢を減らしてもらうように、頼んでみよう」といい残し、帰ろうとして、ふと小川に目をやると、先ほど浮かべたささ舟が、流れないまま、同じ所に、風に吹かれて 漂 ( ただよ ) っているではありませんか。

 「やや、これはどうしたことだ杢之進。お上をあざむくとは、何たる 不届 ( ふとど ) きなやつ」と、役員に問いつめられた杢之進は、 平伏 ( へいふく ) して事情を申し上げ、あやまりましたが、聞き入れられず、その子松之進とともに、遂に死罪をいい渡されてしまいました。

 死刑の日、杢之進は、少しも恐れず、にっこり笑って刑に服したといいます。

その後、天童家では、杢之進の人格を慕う村人たちの勢いを恐れ、年貢を軽減したうえ、当時、罪人には許されなかった墓の 建立 も認め、村人たちは、その地に 地蔵 ( じぞう ) ( そん ) を安置して、霊をなぐさめました。

 その後、地蔵尊のあった土地は河原になり、埋没していましたが、いまから 300 年ほど前に、家を建てようとしたところ、二体の地蔵尊が発見されました。村人たちは、その一体(松之進)を通称・地蔵川の奥山家の屋敷に、もう一体(杢之進)を処刑の地(矢野目南西はじにある墓地)に、安置したと伝えられています。

( 注 1) 義民 ( ぎみん ) :命をすてて、正義、人道のために尽くした人(旺文社辞典)

      

奥山宅に安置されている杢之進地蔵