3.矢口 ( やぐち ) 遺跡 ( いせき ) ( 縄文 時代晩期)

 約 3,000 年前の縄文時代の集落跡。地下 30 cmぐらいの浅い所から、完全な形の 香炉 ( こうろ ) 型の土器、注口型土器、多数の 石斧や土器 破片が発掘された。 竪穴式住居跡も三か所見つかり、原始住民の生活や 風俗を解明する上で貴重な資料と評価された。市内の 光戒壇 ( こうかいだん ) 、 綿掛 ( わたかけ ) でも住居跡が発掘されたが、矢口遺跡はその中でも最も古い。

 

 

【矢口遺跡に関する参考図書】 −川崎利夫先生「天童の歴史散歩」より−

 矢口遺跡は、 1967 年(昭和 42 年)、市教育委員会が主体となり小規模の発掘が行われた。

竪穴式住居の跡が 3 棟発掘され、直径 5 mの床面をじかに利用して火をたいたあとのある地床炉をもつ。円形の周りには 6 〜 8 本の柱穴があった。

 矢口遺跡からは、縄文晩期の、多量の土器や石器が出土している。なかでも優れているものは、香炉型土器である。上部で大きくまるい口があけられ、透かし彫りによって 大腿 ( だいたい ) 骨文 ( こつもん ) を主として表現され、中央部は大きく外側へ張り出し、下部は下に向かって急激にすぼまり、底部は 高台 ( こうだい ) 状である。 繊細な模様に驚かされ、まさに手づくりの極限といってもいい逸品である。何に使われたかよく分かっていないが、明かりを灯したり、蚊いぶしに用いられたと考える人もいる。

 このような縄文晩期の土器は、青森県木造町 亀ヶ岡 ( かめがおか ) から大量に出土したことから、「亀ヶ岡文化」と呼んでいる。その時代の東北地方は、日本列島のなかでも人口も多く、西日本を圧倒し、文化の中心であった。

 そのような東北の文化を支えたのは豊富な木の実や、 根菜類 ( 注 1) などの山の幸であり、サケ、マスなどの川の幸であった。シカやイノシシなどの動物も多く安定した食文化であったと思われる。

縄文晩期の終わり頃、北九州にもたらされた 水稲栽培がだんだんと北上してきたが、東北地方は山の幸、川の幸、 狩猟 ( しゅりょう ) による食の豊かさがあるがために稲作農業は、なかなか進まなかったようである。

渡戸 ( わたど ) 遺跡からは縄文土器のもっとも末期の土器が出土するが、矢口遺跡に見られるような繊細な模様は見られなくなる。直線的な模様が多くなり、単純で 簡素化 ( かんそか ) されたものに変っていく。 絢爛 ( けんらん ) 、 華 ( はな ) やかだった亀ヶ岡式土器もやがて時代とともに簡素化へ向かうようになる。

( 注 1) 根菜類:食用となる根や地下茎。