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蔵 増 地 区 地 名 の 由 来
蔵 増 地 区 地 名 の 由 来

1.蔵 増(くらぞう)大字 
倉増と記されている場合もある。中世戦国時代からこの地名があった。この付近一帯は、倉津川の下流に当たり、土地は湿地帯で肥沃なところであった。一帯に○○田とつく小字名が多く昔から稲作が盛んであったと思われる。そのようなことで稲の倉からこの地名になったと考えられる。

2.窪野目 (くぼのめ)大字
倉津川の最も下流の土地であり、最上川に注ぐ地帯に当たる。土地が窪んでいる湿地帯ということからこの地名になっている。

3.高野辺(たかのべ)大字 
倉津川の下流に当たる樽川に面した集落である。高野はもとは「荒野」つまり荒れた土地という意味で付けられていたのが高野に変ったと考えられる。盆地の底辺部に当たり湿地であり土地としてはよくはなかった。明治の中頃までは高野村であったが後に高野辺になった。

4.塚野目(つかのめ)大字 
塚が点在していたところとしてこの地名ができたと思われる。塚とは土を盛り上げ小高くなったところをさす。
現在は整地され残ってはいないが元は古墳であったともいわれている。以前は北蔵増村に入っていた。

5.矢野目(やのめ)大字
矢野は湿地帯をさす。谷地と同じような意味につかわれる。倉津川に面した湿地帯に当たり昔から農耕が営まれていた。目は一面に広がっているところではなく水辺や小高い矢野目の旧村社「月山神社」ところなどの地点をさしている。

6.カハタ(又は地蔵川原)(通称)
大字矢野目集落のほぼ中央「カハタ」又は「地蔵川原」と呼んでいた。江戸時代のこと、斎藤松之進という名主が、村人のために年貢軽減図るために、検見役が巡回した時に・同じ場所を方角の違う方向からみせたところ・策略であることがわかり、死刑に処せられたという。その後・村人たちが霊を慰めるために地蔵様を祀ったという.この地を「カハタ」又は「地蔵川原」と呼んだという。

7.上宿(かみじゅく)
大字蔵増地内.蔵増北と蔵増南の間に位置する集落を今「中の宿」と呼んでいるが、以前は北蔵増の部であった・この地の東側に位置するところが今も上宿と呼ばれている。

8.北の宿(くたのしゅく)
大字蔵増地内の北部で窪野目に通じるところの集落を指す。 明治以前は北蔵増村であった。この北の宿の東側に後からできた集落を「東町(ひがしまち)」と名づけ今も呼ばれている。

9.小倉増(こくらぞう)
大字蔵増の中心に位置するところ・以前は中倉増と呼ばれていたともいわれている。場所的に中心というだけでなく・最も古くからの集落と考えられる。

10.小矢野目(こやのめ)
大字矢野目地内。矢野は湿地帯をさす。矢野目に隣接している小集落であり、昔から矢野目と一体としての生活圏をなしていた。

11.地蔵町(じぞうまち)
大字蔵増地内。蔵増南地内寒河江街道沿いに村社「稲荷神社」がある。その境内に宝蔵院地蔵が祀られている。稲荷神社は後にこの地に移されたもので、もともとは地蔵様があったことから、ここを地蔵町といっていた。今はこの字名はつかわれていないが、この東側の小集落が地蔵向かいと今も呼ばれその名残をとどめている。

12.新町(しんまち)
寒河江街道に面する「蔵増南」の西の方にできた集落は蔵増の中でも新し.くできた集落ということで新町と名付けられ、今もその名で呼ばれている。

13.楯の内(たてのうち)
大字蔵増地内。蔵増城があったところである。城主倉津安房守が小国に改易になり廃城
になった。その後、城主の命により、西称寺

14.殿原(とのばら)
大字蔵増地内。蔵増城に仕える家老をはじめとする家来たちの住居があったところ。現在もこの地名で呼ばれている。

15.長沼(ながぬま)
最上川に面する東部一帯の畑地をさす。今は肥沃な土地を利用して、果樹栽培が盛んである。昔は、川の流れがしばしば変わり川の底であった。また、最上川が現在の流域になってからもしばしば氾濫し常に被害にさらされていたところであり、沼地が細長く続いていたところからこの名で呼ばれるようになった。護岸工事がなされて以来、安定した畑作地域になっている。

16.西小路(にしこうじ)
蔵増北集落の西側にある道路沿いで、西常得寺に至る道路に面した集落を含めていう。西常得寺(西の寺)に通じる道路であるからこの名称がついたともいわれているが、実際は、蔵増城の西側を走る小道としてついた名称である。

17.沼田・西沼田(ぬまた・にしぬまた)
大字矢野目地内。沼田つまり粘土質の田圃が広がっていたためにこの地名が付けられた ものである。この土地だけでなくこの辺一帯が村山盆地の底辺部に当たりどこも水は けがよくなかったと思われる。西沼田は沼田の西側の部分をさしている。国指定史跡「西沼田遺跡」がある。

18.八幡田(はちまんでん)
甘酒川と藤壇に接し、北宿の旧村社八幡神社の神供田であり、祭礼の時に奉納したと伝えられる。蔵増城主倉津安房守が八幡大菩薩に大般若600巻奉納の時からと言われている。

19.深田前(ふかだまえ)
塚の目の沼があった。沼の周辺の湿地で泥でぬかる水田の前であることから名づけられた。

20.藤壇(ふじだん)
蔵増集落の南の水田地帯に位置し、小塚の上に「南無阿弥陀仏」の碑が建っている。これをお藤地蔵という。この地名はお藤を供養するために塚を造ったところに藤の美しい花がさいたところから名づけられたと言われている。

21.船戸(ふなど)
大字蔵増地内。最上川(古川)の東側に面したところで、以前船着き場であったところである。ここから荷物の積み降ろしをしていた。付近に茶屋などもあり今も屋号として残っている。

22.堀端(ほりばた)
大字蔵増地内。この地の南に倉津安房守が築いた「蔵増城」があった。この地は城の内堀に面したところに当たり今もこの地名で呼ばれている。

23.七ッ塚(ななつづか)
塚の目集落の東に位置し、昔から数多くの塚が点在していた。昭和50年後半に奈良時代の終末期古墳が発見された。「七ッ塚Jは塚の目を支配した領主の古墳があったことから(塚を7つ数えていた)名づけられた。

24.松原(まつばら)
蔵増集落の南に位置する乱婆である。蔵増南の火葬場で、松の大木と桜の大木があり、春には桜が満開となり、その他の季節は松の古木が根をはわせている。地名は松の林が水田の中に見えたことから名づけられた。

25.阿部塚(あべづか)
大字塚の目・高擶.阿部某という土豪の墳墓があったことから呼ばれた地名である.現在は水田地帯で塚があった様子など確認できない。幕末は幕領であった。

26.板橋(いたばし)
大字蔵増.倉津川の支流が流れていたことがあり・そこに木の橋が架けられたことから板橋と呼ばれるようになった・成生の清池清水(仲田)との境界でもあり・清水力・ら流れる小川も
あった.現在、板橋1・2遺跡の発掘調査が行われて・古墳時代の焼失家屋の跡などが検されている。幕末は館林藩領であった。

27.入水(いりみず)
大字蔵増.東常得寺の東側に位置し・入水のところから蔵増の集落へ水が入って分水されていることが字限図で明らかである.蔵増集落への水の入・の意で、蔵増城の堀の水も・この場所から入っている。幕末は館林藩領であった。

28.入川(いりかわ)
矢字蔵増.蔵増集落の北東に位置する水田地帯である・地名のほぼ中央部に倉津川が流れており、字入川の北西で前田川、樽川などが合流する川が入る交わるところであった。現在は倉津川の北になっている。幕末は館林藩領であった。

29.押切(おしきり)
大字蔵増。倉津川の濫乱原で、大雨ごとに堤防が押し切られることが多く、田畑は水害になやまされた土地であった。昔は倉津川もかなり暴れ川だったらしい。幕末は館林藩領であった。

30.お寺畑(おてらはたけ)(通称)
大字高野辺。字下野の畑地の一部が時宗仏性寺の年貢地であった。寺の行事をささえる作物を取る畑であることから「お寺畑」と呼んでいる。幕末は土浦藩領であった

31.解道院(かいどういん)(通称)
大字矢野目。矢野目集落の西北、倉津川の堤防にそったところを解道院と呼んでいる。江戸時代には旧字名として使っていたらしく、塚野目の白田弥右衛門家文書「羽前国東村山郡矢野目村沿革」に記されている。伝えによれば、豪士矢野目彦五郎の墓所とも、祈願所であったともいわれている。付近に屋敷があったといわれ、現在、蔵増押切遺跡の発掘調査で中世の大きな建物跡が検出されているが、もしかすると矢野目彦五郎の館であった可能性も考えられる。幕末は幕領であった。

32.街道下(かいどうした)
大字蔵増。願正壇の南側の水田地帯である。この付近は、戦時代に最上義光と白鳥十郎にかかわる「向去り道」の通りでり、その街道、すなわち向去り道の下という意味で名づけられたといわれる。

33.神屋敷(かみやしき)
大字塚野目。現在は畑地となっているが、塚野目が現在の形で村が形成される以前に、集落があったところといわれている。平安時代の須恵器や土師器などが採取される。幕末は幕領であった。

34.岸ノ目(きしのめ)
大字塚野目。塚野目集落の北側に旧河川の跡が窪んで水田となっている。その岸にある小高いところを示す。川岸の小高いところという意味である。幕末は幕領であった。

35.経塚(きょうずか)(通称)
大字塚野目。塚野目集落の北側に旧河川の跡が窪んで水田となっている。その岸にある小高いところを示す。川岸の小高いところという意味である。幕末は幕領であった。

36.後藤堰(ごとうずか)
大字蔵増。源氏の武将後藤庄兵衛という郷士が逃げ落ち、仮住居して開拓した土地に堰を引いたことから呼ばれるようになった。現在の苦労助稲荷(蔵増南)は昔、願正壇の西、丁度この後藤堰付近にあった祠を明治初年に移して拝殿を建立したといわれている。

37.高野田(こうやだ)
大字高野辺、樽川に面した水田で、湿地帯で土地がらはよくなかった。高野は「荒野」つまり、開田までは荒れた土地であったことから名づけられた。幕末は土浦藩領であった。

38.地蔵田(じぞうでん)(通称)
大字高野辺。字元屋敷の一部、下野は時宗仏性寺の年貢地で本尊鼻欠け地蔵尊への供田で3月と11月に地蔵講が行われ(現在は神明神社祭礼)、その時に使用したり、寺の維持に当られた水田である。幕末は土浦藩領であった。

39.下宿(しもじゅく)
大字蔵増。西常得寺の門前から東へ通る道の両脇を下宿という。上宿に対する下宿で庶民が生活していた集落である。幕末は館林藩領であった。

40.すのこ町(すものまち)(通称)
大字窪野目。窪野目公民館から山形・羽入線までの狭い道である。道路の状態が「すのこ」のようなところから名づけられたという。幕末は天童織田藩領であった。

41.立埋(たてうづめ)
大字蔵増。旧河川を埋め立て場所である。昔の最上川などの旧河川が三日月湖的に埋め立てた土地である。幕末は館林藩領であった。

42.樽川向(たるかわむかい)
大字蔵増。蔵増集落の西側を流れる樽川の向い側、川端の意である。樽川は願正壇付近を水源とする河川で、前田川に蔵増の北で合流する。幕末は館林藩領であった。

43.土井ノ内(どいのうち)
大字蔵増。土井は土手、すなわち土手に囲まれた内側という意味である。何らかの郷士、土豪の屋敷があったことが推測されるが明らかでない。幕末は館林藩領であった。

44.中城(条)(なかじょう)
大字窪野目。窪野目集落のほぼ中心部で熊沢家の総本家にあたる親方を中心と考えて村の形を整えた事が伝えられ、中心部の条すなわち「中城」になったという。幕末は天童織田藩領であった。

45.中楯(なかだて)
大字蔵増。北の宿と楯ノ内の間に位置する。江戸時代の絵図や字限図に堀跡らしき区画があることから、張出しの郭があったと推定される。西小路と共に蔵増城の家臣らの居住したとこといわれている。幕末は館林藩領であった。

46.蓮田(はすだ)
大字蔵増。現在は耕地整理によって平坦な水田であるが、昔は土地が低く水がたまると蓮が生えるような湿地帯であったといわれている。蓮は蓮華であるところから仏様に仏供するため収穫した土地であったともいう方もいる。幕末は館林藩領であった。

47.稗田(ひえだ)
大字蔵増。開田される以前は稗がたくさん生い茂っていたので稗田の名となった。じめじめした湿地であったという。幕末は館林藩領であった。

48.東浦・西浦(ひがしうら・にしうら)
大字蔵増。蔵増北の北の宿を中心として東側の水田を東浦、西側の水田を西浦と呼び東の裏側、西の裏側という意昧である。幕末は館林藩領であった。

49.東田(ひがした)
大字窪野目。集落の東の地域を示す。家屋のところを東と呼び、東の水田を東田と呼ぶ。水害が多く、最上川、倉津川、押切川などの堤防がくづれると水びたしになったところであった。幕末は天童織田藩領であった。

50.東町(ひがしまち)
大字蔵増。北の宿の東にできた集落である。北蔵増では新しく北の宿から東側に出来た集落を意味する。幕末は館林藩領であった。
51.舞台(ぶたえ)
大字蔵増。水田地帯で、ある一ヶ所だけが高くなって舞台のようであたことから名付けられた地名。明治時代には凹凸の差があり台地t的なところであったといわれる。幕末は館林
藩領であった。

52.坊小路(ぼうこうじ)
大字蔵増。蔵増集落の東側で、蔵増城藩主倉津安房守の菩提寺見性寺の東に広がる水田地帯であり、昔は見性寺の支坊が配置された小路があったという。すなわち寺小路から来たといわれているが、防小路とも書かれる場合があり、倉津川の堤に向う道ともいわれている。幕末は館林藩領であった。

54.(元)本屋敷(おちやしき)
大字高野辺。高野辺は蔵増村の枝村で高野村であった。現在の場所に集落が形成される以前、枝郷として分れたところの集落が「元屋敷」であるといわれている。東に「高野田」が位置し、北に現在の集落が位置する。幕末は土浦藩領であった。

53.まるばんば(まるばんば)
大字塚野目.通称まるばんば、又は八幡原とも呼ばれ、中世の供養碑すなわち板碑が建てられている。現在、道路側は村長であった白田家の墓地となっており、昔は木が茂っていて暗いところで、中世からの祖霊があつまるところから呼ばれたと思われる。幕末は幕領であった。

55.矢口(やぐち)
大字矢野目。矢野目集落の入口の意である。矢口は土地が微高地になっており、湿地帯の中の小高いところである。昭和43年に発掘調査が行われ、縄文後期から晩期の遺跡が発見されている。幕末は幕領であった。

56.谷地田(上谷地、下谷地)(やちだ、こうわやち、したやち)
大字蔵増。字入川の東北に位置する水田地帯で、圃場整備以前は凹凸があり、地下は黒い土壌で昔は湿地帯であったことがわかる。谷地すなわち湿地の水田という意であろう。上谷地、下谷地は谷地田の上下の区分でつけられている。幕末は館林藩領であった。

57.割田
大字矢野目。矢野目集落と塚野目集落の境界に位置する。水 田に水がなかなか引かれず日照の時には水田が割れてしまう土地がらであったといわれている。また字名を分ける形で村境となっているため、田を割る、分けるという意味もあるという。幕末は幕領であった。

以上
引用:「天童の地名考」 、続「天童の地名考」
発行者:天童市立旧東村山郡役所資料館

58.寺向路(じこうじ)(ずごず)*
堀端から、誓願寺裏を通じ村社八幡神社に向かう路

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